興味半分の極み管理人―ヒジリの行き当たりばったりな日々の一端を載せております。
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一応、成功したみたいだ…。
だーごん駄言のついったー
ブログとついったーを連動させてみる事に少し興味を持ったので、試してみた次第です。
運用の勝手が良ければそのままついったーも併行してやってみるかも。リンクは左上のメニューにも貼っておきますよ。
狙いの一つ、本文も反映されるかな?と思って、さっきの死神話を少しいれて見たのですが、残念ながらそれはできない模様。そして、friendfeed側のアドレスに直通してしまうため、それもあまりよろしくない。本当なら、忍者ブログ側に誘導したいのですがねぇ。
広告も一緒に上げられてしまう様子なので、それを逐一削除していくのも手間か…それともそれはスルーしていいのか。
いっそのこと、friendfeedじゃなくて、別の方法で模索してみるのも手なんだろね…と。今回の投稿、どう反映される事やら。
さて、バトンの続きを答えていきたいと思います。
あらかじめ書いてる分なので、軽い見直しと補足追加だけで終わったんだとさ。
但し、一つだけ妙に重いのがございます。例の【死】についての話が…。
だーごん駄言のついったー
ブログとついったーを連動させてみる事に少し興味を持ったので、試してみた次第です。
運用の勝手が良ければそのままついったーも併行してやってみるかも。リンクは左上のメニューにも貼っておきますよ。
狙いの一つ、本文も反映されるかな?と思って、さっきの死神話を少しいれて見たのですが、残念ながらそれはできない模様。そして、friendfeed側のアドレスに直通してしまうため、それもあまりよろしくない。本当なら、忍者ブログ側に誘導したいのですがねぇ。
広告も一緒に上げられてしまう様子なので、それを逐一削除していくのも手間か…それともそれはスルーしていいのか。
いっそのこと、friendfeedじゃなくて、別の方法で模索してみるのも手なんだろね…と。今回の投稿、どう反映される事やら。
さて、バトンの続きを答えていきたいと思います。
あらかじめ書いてる分なので、軽い見直しと補足追加だけで終わったんだとさ。
但し、一つだけ妙に重いのがございます。例の【死】についての話が…。
●作風について。
・どんな作風が多いですか? 例:シリアス、コメディ
シリアスを描き”たい”。知らず知らずの内に茶番なギャグを書いてる事もあり。
逆に狙って描いているコメディだと、笑いの壺を外すことが多いのがまた悩みなのさァ。
・ハッピーエンド派?バッドエンド派?
ハッピーエンドはご都合主義でなければまぁアリかと。どちらかと言えばバッドエンドの中に、どう救いを見い出すのかの方が好きらしい。
お気に入りのエンディングは、どこぞで読んだ「トリスタンとイゾルデ」…なのか?共に死のうと毒薬のつもりが惚れ薬の間違いで仇に愛して、最後は……。
・作中で「死」を書くことはありますか?
求めし道では味方側の死者は今のところ殆ど出ていない模様です。そうでなくても、死をあやふやにしている節が強くて、書けたものじゃなさそうです。
それに比べて敵方、サブキャラの死に対しては至極冷淡に終わらせてる節があるなぁ。
・それに対する考えなど。
死んだと明記していないキャラはまだ生きてる、というのがよく見るパターンですな。私もまた例外ではなしに。
「死」に関して一番深く印象に残ってるのは、金八先生で校長先生が亡くなった時に、「死に対する認識のずれ」を生徒が感じた時のことにあります。漫画やゲームの中で人が次々に死んでいくのとは違って、穏やかな中で――それでも確実に死を迎えようとするあのシーンは、今でも忘れられません。
で、逆に架空世界の中の死に関しては、軽く受け取ろうが重く受け取ろうが作者さん、読者さんそれぞれに拠るだろうな…と考えてます。そして時と場合によりにけり。某氏が語られた、アバン先生はアリ!…と言うのは頷けるワケだ(壊)。
私自身の場合、それが現実世界で意味する”死”とは異なるものと割り切って考えている節があるようです。幾つかの作品では蘇生できるという時点で、
ドラゴンクエストのザオリク:FC版IIの時は確かHP1で蘇生だった気がしたな…。
ダンジョンマスターのヴィーの祭壇:遺骨を奉げれば蘇生するが、代わりに生命力――ヘルスを幾許か落とす。
リセット:それまでの経験を全て無に帰す代わりに、倒れる以前の場面からやりなおす(壊)
こうした条件付きの蘇生というのがあってこそ、かろうじて”死”の意義は保たれる…と思うもよし。
結局のところ、何事も「やりなおし」が効かないというのが人生だったりしないものかと。
・恋愛は書きますか?
いや、恋愛と言えるものは書くつもりはありません。少なくとも今は。
今はカップリングを書くとすれば吊り橋効果を有効活用するぐらいしか頭になさそうです。
・どんな作風が多いですか? 例:シリアス、コメディ
シリアスを描き”たい”。知らず知らずの内に茶番なギャグを書いてる事もあり。
逆に狙って描いているコメディだと、笑いの壺を外すことが多いのがまた悩みなのさァ。
・ハッピーエンド派?バッドエンド派?
ハッピーエンドはご都合主義でなければまぁアリかと。どちらかと言えばバッドエンドの中に、どう救いを見い出すのかの方が好きらしい。
お気に入りのエンディングは、どこぞで読んだ「トリスタンとイゾルデ」…なのか?共に死のうと毒薬のつもりが惚れ薬の間違いで仇に愛して、最後は……。
・作中で「死」を書くことはありますか?
求めし道では味方側の死者は今のところ殆ど出ていない模様です。そうでなくても、死をあやふやにしている節が強くて、書けたものじゃなさそうです。
それに比べて敵方、サブキャラの死に対しては至極冷淡に終わらせてる節があるなぁ。
・それに対する考えなど。
死んだと明記していないキャラはまだ生きてる、というのがよく見るパターンですな。私もまた例外ではなしに。
「死」に関して一番深く印象に残ってるのは、金八先生で校長先生が亡くなった時に、「死に対する認識のずれ」を生徒が感じた時のことにあります。漫画やゲームの中で人が次々に死んでいくのとは違って、穏やかな中で――それでも確実に死を迎えようとするあのシーンは、今でも忘れられません。
で、逆に架空世界の中の死に関しては、軽く受け取ろうが重く受け取ろうが作者さん、読者さんそれぞれに拠るだろうな…と考えてます。そして時と場合によりにけり。某氏が語られた、アバン先生はアリ!…と言うのは頷けるワケだ(壊)。
私自身の場合、それが現実世界で意味する”死”とは異なるものと割り切って考えている節があるようです。幾つかの作品では蘇生できるという時点で、
ドラゴンクエストのザオリク:FC版IIの時は確かHP1で蘇生だった気がしたな…。
ダンジョンマスターのヴィーの祭壇:遺骨を奉げれば蘇生するが、代わりに生命力――ヘルスを幾許か落とす。
リセット:それまでの経験を全て無に帰す代わりに、倒れる以前の場面からやりなおす(壊)
こうした条件付きの蘇生というのがあってこそ、かろうじて”死”の意義は保たれる…と思うもよし。
結局のところ、何事も「やりなおし」が効かないというのが人生だったりしないものかと。
・恋愛は書きますか?
いや、恋愛と言えるものは書くつもりはありません。少なくとも今は。
今はカップリングを書くとすれば吊り橋効果を有効活用するぐらいしか頭になさそうです。
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